4月2日の午後1時15分それは突然やってきました。昼食を食べ終わったひとときのことでした。「ドスーン!」という音が「???」なにが起こったのだろうか。台所で食器を洗っていたその手を拭きながら音のした居間へ入ると。父親が倒れていた。「どうしたの!」、「おい!」なにも答えが返ってこない。「これは!。」すぐに電話を取ると119番をダイアルした。「あの!」、「救急です!。」「父親が突然倒れ意識がありません!。」、「住所と氏名を伝え受話器を置いた。」まもなくサイレンの音と共に救急車がやってきた。ドアを開け、玄関を開放して手を振った。「ここです!。」サイレンを止めた救急車から隊員が我が家に向かって走ってきた。「こっちです!」と手を振って招いた。「どうしました!。」、私が状況を話し始めると同時に「隊員はすぐに人工呼吸を開始した。」いくつかのやりとりを続けながらもその手を休めることなく交代をしながら続けた。別の隊員が本部と交信を続けて「ドクター・カー」を要請した。しばらくするとサイレンが近づいてきて済生会水戸病院のドクターが到着した。その間も蘇生作業が続いていたが何の変化も起こらなかった。更に隊員が交代を続けながら、蘇生作業を続けて病院へ搬送した。病院へ到着すると、すぐに「ICU」に運び込まれて蘇生作業が続けられた。1時間。2時間。救急隊員は未だに帰る気配もなく病院スタッフと動き回っていた。あれから3時間後、やっと私に声が掛かった。「先生よりお話があります。」しばらくして担当医より状況説明があり、「救急要請から約1時間後に心肺停止状態から脱しましたが脳へのダメージが相当あり快復は難しいと判断いたします。」とのことだった。それから2時間ほどしてから看護士に案内され入院手続きを行った。その後、ICUへの入室を許可されて父親の顔を見てひとまず帰宅した。翌日は朝から買い物のリストを作りながらとりあえず手元にある物を探した。ICUへの面会は午後2時からの決まりであったが、日に数回「状態が急変」するため「朝、昼、晩」と病院に向かい状態が安定すると帰宅した。弱いながらも自力で脈を打ち、呼吸を続けていたが、4月7日午後5時57分いくつものチューブで繋がれた状態のまま「5日間にわたる生死の戦い」に幕を下ろしてしまった。享年87歳と8ヶ月であった。平成9年に大きく体調を崩してから丸12年の年月が経った今、入退院を繰り返した時期、自宅で約1年間ほぼ一日を寝て過ごした時期、夜中に突然苦しみだした本人が「救急車は嫌だ!」ということで私が車に引きずり込み病院に行ったことなども数回ありました。しかし最近の3年ほどは特に変わったことも起こらずに健康な状態で「毎朝7時に起床して朝食を食べ~新聞を読み~テレビを見て~昼食を食べ~テレビを見て~3時のお茶を飲み~6時から風呂に入り~7時30分に夕食を食べ~テレビを見て~9時に寝る」このパターンを一年365日ひたすらに守り続けてきたこともあり、突然のことでショックであった。しかし私自身の体調もこの間の節制により以前とは大きな変化があり今では「健康体」を維持している。一人になってしまったが、現在のリズムを変えることなく毎日の生活を続けていこうと考えている。尚、父親のタンス(注1、魔法の箱と私は呼んでいた)から写真や手紙などが大量にでてきたので、内容を整理してから追悼版のようなものを作成してみたい気持ちになっている。ざっと見た感じでは「戦友会」関連が大半のようで戦友の皆様がお元気な内にお届けできるよう頑張ってみたい。注1:次から次へと自分宛に来た物はここへ入れてしまい捨てたり整理している姿を見たことがなかったため。